私の記憶が確かならば

人の記憶なんて曖昧なもので、大抵は良い方にも悪い方にも色がつくものだ。

私の友人にも何かと記憶に色をつけたがるタイプのヤツがいて、自分の記憶のなかに丸く納めていたものを、よせばいいのに半ば強引に引っ張りだし、誰が得すんだよという事がしばしばあるのである。

 

ソイツとは中学の頃からの仲で、今でも二人でゲーセンに行ったり、パチンコに行ったりと、気軽に遊べる間柄なのである。

そんな彼であるが、記憶力が半端ではないのだ。中学の修学旅行の班のメンバーに誰がいたかとか、どこで何を食ってうまかったのかまずかったのか。その時誰がどのような事をしゃべり、みんながどんな反応をしたのか、等々。

普通の人ならとうに忘れているような過去を色鮮やかに再現してしまう能力の持ち主なのだ。余談だが、残念なことに勉強についてはその能力は影を潜めている。

 

とまあ、その能力はすごいし面白いのだが、これもまた彼の能力なのであろうか。その鮮やかともいえる記憶の映像にも、鮮やかすぎるというか、「コイツ色つけてやがる」と思わせることがしばしばあるのである。

例えば中学という多感な頃を一緒に過ごせば、毎日何かしら事件というか、何かあるわけである。そんな日常に色をつけてしまってはもう回収不能というか、記憶のなかに丸く納めていたものも刺々しく露見してしまうのである。

「そんな過去も今となっては」というのは、苦かろうが辛かろうが、そんな過去をマイルドに自分のなかで受け入れられる形に変化させて保管しておく余裕を喜ぶようなものだと思う。それを色鮮やかによみがえらせてしまっては、正直苦しくなる。

 

記憶に色をつけると始めに言ったが、その逆というか、人は記憶を脱色して保管しているということも言えるのではないか。良いことも悪いことも、多少なりとも脱色して保管しておくこと。鮮やかすぎる色彩をマイルドに、自分のなかに留めておくこと。

 彼の鮮やかすぎる色彩をもった過去を「色をつけてやがる」と感じるのは、両者の間で記憶の脱色具合に差があるために生じる摩擦ともいえる。

 

すまん、オレが間違っていたと彼に謝りたいところではあるが、以前彼に「お前は昔の事を話すとき色をつけるどころか話を作っているのではないか」と問いただしたところ、「そうかも」とあっさり認めやがったことはここに書いておかねばなるまい。

 

おしまい