黄金糖

私の住んでいるところも梅雨に入り、じめじめと蒸し暑い時期になってきた。

大体この時期から、毎年熱中症についての対策が求められる。

熱中症の対策といっても、こまめに水分をとり休憩することくらいしかできない。

そんな休憩の合間に、飴をみんなで分け合うのがこのところ常となっている。

熱中症の予防に塩飴を持っていったり、シュワシュワとけるサイダーの飴を持っていったり。持っていく飴の趣向で何となくその人の趣味みたいなのが分かったりして楽しい。

そんな休憩のお供の飴であるが、この間よくお世話になっているおじさんから黄金糖という飴をもらった。

その時は何となくきれいな飴だなあくらいしか思わなかった。名前の通り黄金色のきれいな飴だ。形も富士山みたいなきれいな形。大きさはちょっと小さくて上品な感じだ。

帰って一段落してから食べてみると、とても懐かしい味がした。なんの味だろうとしばらく舐めながら考えていると、これ綿菓子の味だ!ってなった。

ザラメの香ばしい匂いとか、やさしい甘さとか。懐かしいなあ。

私のなかの綿菓子は、今はもう潰れてなくなってしまったが、隣町のスーパーのゲームセンターで食べる綿菓子がとても印象に残っている。

昔よう連れてってもらったなあ。

そのスーパーは「リブレ」といって、隣町にあった。当時はそこそこ繁盛していて、休みの日にリブレに連れていってもらうのがうれしかったものだ。

大体じいちゃんが運転して、ばあちゃんと姉ちゃんと私で行くことが多かったような気がする。

リブレにはゲームセンターがあって、電車の乗り物やキャラメルがもらえる遊具もあった。今のゲーセンとは大分趣向が違うけど、当時はそれで十分楽しかった。

そんなリブレのゲーセンには、自分で綿菓子が作れる遊具もあったのだ。

お金をいれると機械がヴン…と動き出す。真ん中に穴が開いていて、そこにザラメがザラザラっと入れられる。甘い、香ばしい匂いが立ち込める。白いザラメの糸が機械の中から遠心力で流され出てくる。

機械の横には割り箸が備えてあり、ザラメの糸をすくう。

きれいにできたことなんてないんだけど、その綿菓子が大好きだった。

飴ひとつでこんな懐かしい気分に浸れるとは思ってもみなかったけど、黄金糖かあ。今度買ってみよう。

 

おしまい

車検

前にどこかで読んだ記事にこんなことが書いてあった。

「男は女を好きだが、それ以上に車を愛している。」

これ。これですよ。

面倒なのでこの際ジェンダーについては置いといて、男は車を愛しているんですよ。

かくいう私もそんな愚かな男の一人なんですが、今年は愛車の車検がありまして。

もう19年前の車だからいろいろと覚悟はしていたんですが、やはりというべきか。出来上がった明細を見ると「高えよ…。」というのが正直なところでした。

しかしながら整備を終えて元気に走り回る姿を想像すると、カードをスッと出してしまうのが愚かというかなんというか。

「10回払いでお願いします。」

車検でローン組むなんてカッコ悪いですが、背に腹は代えられません。私にも生活がありますからね。

そんなこんなで車検も無事終わり、また元気に走り回る愛車に乗っていると「今度はタイヤおごってやろうかな。」等と考えるのも馬鹿な男なんですよね。

 


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おしまい。

イチゴ狩りと桜祭り

今日は日曜日で、前から予定していたイチゴ狩りに行くこととなった。
家庭菜園でイチゴを育ててはいるが、収穫は少ないし、売っているような立派なイチゴは採れない。
このイチゴ狩りでは、プロの栽培方法を勉強しようとの狙いもあった。
予約をしていた農園に着いた。ハウス栽培で中は暖かく、それよりも見渡す限りイチゴで一杯である。
すげえな。
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ハウスの中のイチゴ。子供じゃなくてもテンションが上がる。
勉強するつもりで行ったけど、次第にイチゴ狩りに夢中になる。
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粒が大きいし、苗も立派である。うーん、何が違うんだろう。
気がつくと30分たってしまった。
イチゴの勉強はできなかったけど、楽しかった。

時間があったので、桜祭りにも行ってきた。
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しだれ桜。濃いピンクがかわいい。
山あいにある集落でやっていた桜祭り。今日は肌寒く、天気も悪かったのだが、けっこう賑わっていた。
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アユを食う。うまい。苦手だけどたまに食うとうまい。サービスでヤマメの塩焼きももらった。

なかなか楽しかったです。腹一杯だわ。

おしまい

🍓イチゴ日記2018🍓

今年もやって来たかという感じですが、イチゴのシーズンです。

3年ほど前から家庭菜園でイチゴを育てています。趣味でやっている程度ですが、楽しくて気分転換にはもってこいです。

それではいってみましょう。


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まずは畑を耕します。ひと冬越した畑は固くて、耕すには力がいります。


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耕すとこんな感じです。三平米くらいかなあ。けっこう疲れます。


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肥料を混ぜます。近所の人から貰いました。感謝。


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イチゴの苗はこんな感じで植えていきます。苗もいただいたものです。ほんとありがたいです。


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 完成です。全部で16株あります。

とりあえず今回はこれで完成です。

たくさんとれるといいなあ。

 

おしまい

JTBの乱

甥っ子がこの春小学生に上がることもあり、僕と甥っ子の二人で母親からUSJへの男二人旅がプレゼントされた。

旅というものは準備が大変で、旅行自体は楽しい物なのだが、その前の段取り次第でその旅行の良し悪しが左右されると言ってもいいだろう。

そんな旅行の準備なのだか、電車やホテル、今回はUSJということもあり、そのアミューズメントパークのチケットまで手配する必要があった。

なかなか大変な作業であるが、僕はその準備には一切参加されることなく、母親一人で手配する事となった。

そもそも僕には事前にUSJへ甥っ子と行ってくれないかという母親からの打診があっただけで、僕はその案に二つ返事で承諾しただけである。

甥っ子の春休み中に行くんだなということは分かってはいたが、詳細は全く聞かされていない。日程だけ聞かされて、次第にその日が近づいてくるのをただ漠然とした不安とともに過ごしていた。

旅行の日程は土日なのであるが、母親がチケットを持ってきたのはその週の木曜日だったと思う。

ネットも使えない母親が、USJの旅行を手配するのはさぞ大変だったろうと聞いたら、JTBへ行って手配してもらったとのことであった。

なるほど、大手旅行代理店に頼めば、一泊二日の国内旅行の手配など訳もないだろう。母親は嬉々として手配したチケットを手に、自分の手柄を説明してくる。

行きは特急のグリーン車であること、ホテルはUSJからすぐであること、入場券は2日分あること。説明を聞きながら、甥っ子との二人旅を空想し、楽しい気分に浸っていた。

母親はチケットを手に、旅行の段取りを一通り僕に説明し終わると、そのチケットをJTBで貰ったであろう封筒へしまい、傍らのディズニーのビニール袋へ押し込んだのである。

その一連の所作にとんでもない違和感を覚えたので恐る恐る聞いてみる。「僕たちはUSJに行くんだよね?その袋はおかしくない?」

もっともな意見であるが、母親はその違和感をイマイチ重大ではないと考えているらしい。

「その袋はどうしたの?」

続けて問う僕に、「JTBでもらったのよ。」

この答えがルックJTBで行くUSJ男二人旅の不安のピークであったことは、ここに書いておかねばなるまい。

 

後述ですが旅行は終始楽しく、快適に過ごせました。JTBさんありがとう。ディズニーのビニール袋を持っていく勇気はなかったので、家に置いていきました。

 

おしまい

 

私の記憶が確かならば

人の記憶なんて曖昧なもので、大抵は良い方にも悪い方にも色がつくものだ。

私の友人にも何かと記憶に色をつけたがるタイプのヤツがいて、自分の記憶のなかに丸く納めていたものを、よせばいいのに半ば強引に引っ張りだし、誰が得すんだよという事がしばしばあるのである。

 

ソイツとは中学の頃からの仲で、今でも二人でゲーセンに行ったり、パチンコに行ったりと、気軽に遊べる間柄なのである。

そんな彼であるが、記憶力が半端ではないのだ。中学の修学旅行の班のメンバーに誰がいたかとか、どこで何を食ってうまかったのかまずかったのか。その時誰がどのような事をしゃべり、みんながどんな反応をしたのか、等々。

普通の人ならとうに忘れているような過去を色鮮やかに再現してしまう能力の持ち主なのだ。余談だが、残念なことに勉強についてはその能力は影を潜めている。

 

とまあ、その能力はすごいし面白いのだが、これもまた彼の能力なのであろうか。その鮮やかともいえる記憶の映像にも、鮮やかすぎるというか、「コイツ色つけてやがる」と思わせることがしばしばあるのである。

例えば中学という多感な頃を一緒に過ごせば、毎日何かしら事件というか、何かあるわけである。そんな日常に色をつけてしまってはもう回収不能というか、記憶のなかに丸く納めていたものも刺々しく露見してしまうのである。

「そんな過去も今となっては」というのは、苦かろうが辛かろうが、そんな過去をマイルドに自分のなかで受け入れられる形に変化させて保管しておく余裕を喜ぶようなものだと思う。それを色鮮やかによみがえらせてしまっては、正直苦しくなる。

 

記憶に色をつけると始めに言ったが、その逆というか、人は記憶を脱色して保管しているということも言えるのではないか。良いことも悪いことも、多少なりとも脱色して保管しておくこと。鮮やかすぎる色彩をマイルドに、自分のなかに留めておくこと。

 彼の鮮やかすぎる色彩をもった過去を「色をつけてやがる」と感じるのは、両者の間で記憶の脱色具合に差があるために生じる摩擦ともいえる。

 

すまん、オレが間違っていたと彼に謝りたいところではあるが、以前彼に「お前は昔の事を話すとき色をつけるどころか話を作っているのではないか」と問いただしたところ、「そうかも」とあっさり認めやがったことはここに書いておかねばなるまい。

 

おしまい